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サド:マルセイユ事件

[事件概要]
1772年6月27日(マルキ・ド・サド:32歳)
4人の娼婦を集め、下男も交えて、鞭で打ったり打たれたり、鶏姦を要求したり、自分が娼婦と交わっている時に、下男に自分を鶏姦させたりと、乱痴気騒ぎをした。
そのとき娼婦たちに媚薬入りのボンボンく与えたが、腹痛と吐瀉を起こし、毒殺未遂事件として訴えられた。
媚薬の成分である甲虫がよく練りつぶされていなかったためで、毒物ではなかったとする見解もあるが、当時、媚薬に使用された甲虫は数種類あるが、例えばスパニッシュ・フライなど、それらが実際の殺人事件で使用された例や、誤って死に致らしめた例は少なくはない。

[事件経過]
1772(32歳)
6/27 ソドミーと毒殺未遂の疑いで告訴
7/ 4 サドと共犯である下男のラトゥールに逮捕状が発せられ、イタリアに逃亡
9/ 3 サド不在の内に裁判、サドとラトゥールは毒殺未遂とソドミーの罪により死刑の判決をうける
12/ 8 シャンベリーにてサドを逮捕

※ソドミー:肛門性交(英)Sodomy (旧約聖書「創世記」18~19章に出てくる町ソドムより)同性で行う性行為は非常に重い罪だとして、神が天から硫黄と火を降らせて滅ぼされたという話に由来する。
同性愛を違法化する「ソドミー法」のようなものを掲げた国や地域は少なくなく、日本でも明治6年から明治13年の刑法発令までの間存在し、懲役刑が課せられた。

[関連人物]
●アルマン・ラトゥール(Latour)
サドの下男で、サドと関係があり、マルセイユ事件の共犯者で、サドと一緒に死刑判決を受けたあばた顔の大男
●マルグリット・コスト(Marguerite Coste)
当時19歳の娼婦で、サドに貰ったボンボンを全部食べて腹痛をおこしてサドを訴える
●マリアンヌ・ラヴァンヌ(Marianne Laverne)
当時18歳、4人の中では最年少の娼婦で、サドに貰ったボンボンを食べて腹痛をおこす
○他、娼婦二名
●ルイ・マレー(Marais,~1780)
パリ市警の警視で1763年よりサドを監視し、その女性関係やスキャンダルの数々を正確に報告書にまとめ、サドの最初のスキャンダル、ジャンヌテスタル事件にはじまり、何度もサドを逮捕している

サドの人格形成に関する考察

1740( 0歳)
6/02 パリに生まれる
ジャン・バティスト・ジョセフ・フランソワ・サド伯爵(1702~1767)
サドの父。
プロヴァンス地方の貴族であったが、1733年サドの母と結婚して王家との関係を持つ。
軍人および外交官の中堅として勤務。
「几帳面で、やや陰気臭く、尊大で、厳格で、甚だしい浪費家」であったが、有能な外交官でもあったという。
マリー・エレオノール・ド・マイエ・ド・カルマン(1712~1777)
サドの母。
大コンデ家と血縁のあるマイエ・ド・カルマン家の出身。
1733年の結婚後、コンデ内親王の話し相手の女官として出仕。
いつの頃からかサド伯爵とは不仲であったらしい。
1740年代の後半よりカルメル修道院に入り、一生そこを出なかった。

1744( 4歳)
ルイーズ・アルドンス・ド・サド
サドの祖母。
彼女のもとに預けられる。
サドは後に「祖母の余りにも盲目的な愛情が、私のあらゆる欠点を育て上げた」と書いている。

1745( 5歳)
ジャック・フランソワ・ポール・アルドンス(1705~1778)
エルブイユの修道院長で、サドの父伯爵の弟。
28歳までパリで放蕩生活を送った後、1733年に聖職者になった。
サドは5歳から10歳までのあいだ彼の元に引き取られ、そこで幼少の多感な時期を過した。
文学好きの放蕩者であった彼からサドが受けた影響は大きいと思われる。
サドが成長した後も、二人は何度となく放蕩生活を共にし、1762年には放蕩の罪で投獄もされている。

1750(10歳)
パリに戻り、イエズス会の中学ルイ・ル・グラン校に入学。
ジャック・フランソワ・アンブレ師
サドが10歳の頃の家庭教師。
サドがアルクイユ事件をおこしたとき、法廷で「私は少年時代からのサド侯爵の善良な性格を知っているので、告訴されているような恐ろしい事件を彼がおこしたとは到底信じられない」と証言した。

1754(14歳)
5/24 
近衛軽騎兵連隊付属の士官学校に入学
1755(15歳)
12/14 
近衛騎兵連隊の無給の少尉に任官
1757(17歳)
1/14 
サン・タンドレ旅団重騎兵連隊の旗手に就任、プロシアとの七年戦争に従軍
1759(19歳)
4/21 
ブルゴーニュ騎兵連隊の大尉に昇進
1763(23歳)
3/15 
7年戦争の終結に伴い、騎兵連隊の大尉として退役する
5/17 王家の許可を得て、終身税裁判所名誉長官の長女ルネ・ぺラジー・コルディエ・ド・ローネー嬢とパリで結婚。
ルイ・マレー(~1780)
パリ市警の警視。
宮廷官房の依頼でサドを追いかけ始め、その女性関係やスキャンダルの数々を正確に報告書にまとめる。
何度もサドを逮捕したり、逃げられたりしている。
ガブリエル・ド・サルティーヌ
1759年から1774年までのフランスの警視総監。
サドの迫害者。
10/18,19 サドの最初のスキャンダル、ジャンヌテスタル事件
ラ・ブリソ
当時、パリで最も有名な娼家の女主人。
1764年にマレーに「サドには絶対に女を取り持たないように」と勧告される。


以上は、マルキ・ド・サドが最初のスキャンダル、ジャンヌテスタル事件に至るまでの経歴である。
まず着目すべきは、0~3、4歳の両親の関係であろう。
両親が不仲になったのがいつ頃からかははっきりしないが、サドが4歳の時に母親が修道院に入り、祖母のもとに預けられていることから、サドが生まれて以降は不仲であったことは容易に想像でき、それがサドのサディスティック・パーソナリティの形成に大きな影響を与えたものと推測される。
そして、サド自身が後に書いている「祖母の余りにも盲目的な愛情が、私のあらゆる欠点を育て上げた」という点、文学好きの放蕩者であった叔父から受けた影響、それらがサドの行動の心理的な原型(人格障害)を構成したといってよいだろう。
更に、17歳での七年戦争への従軍も、サドの生き方、特に社会的または宗教的な倫理観に大きな影響を与えたものと考えられる。

マレー警視のラ・ブリソへの勧告から推測するに、16世紀のフランスの娼館を発祥とする性的なSMプレイとの出会いが、サドを性的虐待の方向へと誘ったことが想像できる。
ただし、娼館における一般的なSMプレイは、擬似的な支配と隷属の関係を主体とするものである。
サドの恋愛遍歴において、数多くの恋人がいるのに、彼女たちに対してそうした行為を行っておらず、サドのスキャンダルの被害者となった女性たちは、いわゆる街娼であったという点も注目すべき点だといえる。