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現在の裁判制度は、市民感覚からずれているという。
しかし、現在の日本の裁判制度は、法治国家の裁判としては極めて正常な制度である。
被害者や遺族の心情は十分に理解できるが、それに左右されるならば法治国家の裁判ではない。
その心情は、求刑を行う検察、検事が受け止めるべきもので、裁判官がそれに左右されてはならない。
その意味でいうなら、現在いわれているような裁判制度の問題点とは、裁判制度そのものよりも、検察、検事の立ち位置の問題なのだから、新たに導入された被害者参加制度で十分である。
裁判員制度に関して言えば、裁判に市民感覚として被害者や遺族の心情を反映させようとするなら、それはまるで中世ヨーロッパの魔女裁判である。
その心情とは、憎悪と殺意だから・・・。
近年、殺人事件の被害者遺族が、マスコミに登場して、判決への不満や死刑を望む発言をすることが多い。
最近でも、夫を殺害された母親がテレビに出演して、子供の将来のためといいながら、死刑を望む発言をしている。
しかし、憎悪や殺意にみちた母親の姿は、子供の目にはどう映っているのかと考えた時、むしろその方がその子の将来に不安を感じる。
被害者や遺族の心のケア、特にそうした憎悪や殺意をいかに静めるかが重要になるだろう。
日本人は、「罪を憎んで人を憎まず」という言葉に代表されるように、昔から復讐を認めていない。
江戸時代の仇討ちにしても、復讐を目的としたものではない。
武士にとって、自刃は名誉を守る(または名誉を回復する)手段であるが、他人の手で殺される(処刑も含めて)ことは家の恥とされた。
仇討ちは、家名(家または一族の名誉)回復のためのもので、復讐のための仇討ちは認められない。
だから、仇討ちは家督相続予定者(男子、もしくは弟など)のみにしか許されない。
その点が、復讐を目的として誰がやってもいい西洋の敵討ちとは違う。
有名な忠臣蔵にしても、物語としては最後は全員切腹するわけだが、実際には、仇討ちではなく、無許可の復讐だから、切腹は許されず、処刑されたという説もある。
被害者や遺族が死刑を望む心情は、加害者が殺人に至る心情と同じ、自己中心的な発想によるものである。
金銭目的、怨恨、通り魔、などの殺人を犯した人間、というよりも、殺人に限ったことではなく、犯罪の出発点は必ずなんらかの被害者意識がある。
条理、不条理に関わらず・・・。
ちなみに、裁判員制度は、裁判に市民感覚を反映させる制度にはならないだろう。
むしろ、裁判員に選ばれた人がまっとうな人なら、法治国家の国民として、ずれた市民感覚を認識する制度になるだろう。
先日、裁判員候補に選ばれた人が法律に反して記者会見を開いたが、法律に反した行動では、内容がいくら正当な主張であっても認められない。
何故なら、そのような行為のことをテロというからである。
銃や爆弾をもって行われるものだけがテロではないのだ。
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