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手鎖人

江戸時代の日本では、手錠が発達しなかったために捕縄術が発達したという人もいるが、江戸時代には高い金属加工の技術があり、既に戦国時代を経て捕縄術が高度に完成されていたために手錠が発達しなかったと考えられている。
手鎖1

手鎖2

「公事方御定書」 下巻『御定書百箇条』(通称)の中には、刑罰としての手鎖(てぐさり)刑があった。
手鎖については以下のような記述がある。
「其のかかりにて手鎖をかけ封印を付け、五日目切りに封印を改め、百日手鎖の分は隔日に封印改め」
また、手鎖の封印を改める者を「手鎖人」という。

作品から


多くのSMマニアが江戸時代にもSMが存在したという根拠とするのがこうした春画である。
「イヤよイヤよもスキのうち」という論理で描かれた艶本は多いが、それは洋の東西を問わず、性犯罪者の多くに共通する論理であり、いわゆる性的サディズムという犯罪心理の自己正当化の典型的な例である。
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これは、幕末から明治にかけて「無惨絵」で知られる月岡芳年の作である。
そもそも「無惨絵」とは、幕末に流行した「残酷物」と呼ばれる歌舞伎や芝居を題材としたもので、この絵もいわゆる「鬼婆」や「山姥」と称される昔話を題材としている。
明治から大正にかけて輸入された欧米の性風俗としてのSMと、月岡芳年の作品を結びつけた作家や画家は多かった。
その代表として挙げられるのが伊藤晴雨であり、その作品としての「責め絵」である。
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また、その影響を受けたSMマニアの多くは、江戸時代以前の拷問をSMと結び付けている。
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そうして生まれたのがいわゆるSM緊縛である。
問題なのは欧米から輸入された時点で、既に欧米におけるSMに対する認識自体が性犯罪を正当化する方向、虐待行為へとゆがんでいたということである。
すなわち、精神医学上の犯罪心理としてのサディズムや、マルキ・ド・サドやその作品をカルトフィギュアとする社会学的サディズムに関する知識が欠落していたという問題である。
つまり、SM緊縛の歴史は、現実的にSM緊縛に相当する作品は伊藤晴雨以前に遡ることはできない。
しかし、虐待ではない、性的な指向とは異なるものがあったことはわかっている。
それが江戸時代の縄師による美人画である。
私自身は一度だけ目にしたことがあり、現在も個人の蒐集家が所有していると思われるが、所在は不明である。
有名絵師の作品ならなんらかの形で表にも出るのだろうが…。

遊女とは?

古くは『万葉集』に、遊行女婦(うかれめ)の名で書かれている。

中世の遊女は、傀儡女(くぐつめ)白拍子(しらびょうし)傾城(けいせい)上臈(じょうろう)などと呼ばれた。
《傀儡》
9世紀頃から各資料に現れだし、芸能によって生計を営みながら諸国を旅した集団の事である。
特に人形を操っていたとされ、呪術なども行なったといわれる。
《白拍子》
巫女による巫女舞が原点にあったともいわれ、平安時代末期から鎌倉時代にかけて起こった歌舞の一種およびそれを演ずる芸人。
巫女が布教の旅において舞を披露していく中で、次第に芸能を主としていく遊女へと転化したといわれる。
《傾城》
君主が夢中になって国を滅ぼすほどの美女の意。
《上臈》
最上位に位置する女性の意。

1584年(天正13年)、豊臣秀吉の治世に遊女は都市の一ヶ所に集められ、今の大阪の道頓堀川北岸に最初の遊廓がつくられた。
これ以降、遊郭は悪所と呼ばれ、差別的に扱われるようになったといわれている。

江戸時代になると、女郎(じょろう)や娼妓(しょうぎ)という呼称がある。
江戸時代の「遊女」は一般的な呼称であり、働く場所により名称も異なる。
一般に、遊郭や岡場所などの店に属している者を「女郎」と呼び、歌舞音曲を担当する「芸妓」や「舞妓」まで含めて「娼妓」という。
その他の「遊女」には、湯屋で働く「湯女(ゆな)」、宿場で働く「飯盛女(めしもりおんな)」、路上で客をひく街娼「夜鷹(よたか)」などがあった。
《女郎》
人に使われる身分の低い女の意。
《芸者》
芸者とは、元々は芸妓の古い呼び方である。
江戸では、元々は年季の明けた女郎の一部が身につけた芸で生計を立てたのが始まりとされ、歌舞音曲などの芸事、酒宴の接待などに特化した芸者へと変化する。
廓内でも、女郎は前帯、芸妓は後帯で区別された。
その後、そうした芸妓が深川周辺に集まるようになり、芸は売っても色は売らないことを信条とし「音吉」「蔦吉」「豆奴」など男名前を源氏名とする辰巳芸者へと発展する。
《太夫》
江戸の吉原と対比される京都の嶋原は、「花街」ではあるが遊郭ではない。
嶋原の太夫は高水準の芸が売り物で、体を売らなかったから芸妓であって女郎ではない。
よって、太夫は「花魁」ではないし、嶋原の女性は手形は必要だが、廓からの出入りは自由である。

「遊女」とは、元々は歌舞音曲などの芸で酒宴などの際に場を盛り上げる女性の総称であり、「花街」とは、酒を提供する飲食店が集まる一帯を指し、室町時代、「九条の里」という傾城局が最初の公許された花街といわれる。
豊臣秀吉の治世に、いわゆる娼婦(売春婦)とひとくくりに扱われ、それまで保障されていた行動の自由が制限され、更に、周りは堀に囲まれた「廓」に限られるようになり、その結果として遊女=娼婦というイメージが生まれた。
また、江戸は、様々な理由により男女の人口バランスの偏った都市であったが故に、廓は性風俗に特化した遊郭になったといわれる。

縄文時代の縄

桜町遺跡は、1988年(昭和63年)に行われた発掘調査で縄文時代中期末から後期初頭(約四千年前)の高床建物の柱材が出土、弥生時代に伝わったと考えられていた高床式の建物が二千年もさかのぼることを実証し、考古学関係者の関心を集めた遺跡である。
遺跡は、市街地から北西約4㎞の国道8号バイパス沿線の湿地帯にあり、遺物が良好な状態で保存されている。
そこで、1997年に縄が3本出土している。
縄1

縄2

縄3

一本は直径6mmの細いもので、非常に丁寧に綯(な)われている。
一本は長さ16cmで直線状、もう一本は結び目が付いている。
縄は左綯いで、左利きの人によって綯われた(?)ものと思われ、結んである縄の結び方は「本結び」。

桜町JOMONパーク出土品展示室
 富山県小矢部市桜町(桜町遺跡駐車場内)
 電話/0766-67-5255
 開館時間/9:00~17:00(入館は16:30まで)
 休館日/月曜日(祝日、振替休日にあたるときは翌平日)、及び12月28日~1月4日

小矢部市役所のホームページより
http://www.city.oyabe.toyama.jp/

一般的な紐や縄はほとんど右綯いで、私たちが使っている6mmの麻縄も右綯い。
地域によっては、祭事などに左綯いの縄を用いるが、出土した縄は、祭事用というわけではないだろう…。
私の住む地域でも、年に二回行われる獅子廻し(地域内の約200軒を一日かけて回る)の時には、左綯いの縄(地域の若衆が出発前にそれぞれ自分で綯う)を使い、お稲荷さんの注連縄(その年の当番の人たちが作る)は左綯いが決まり。
ちなみに、左利きの私が綯うと縄は左綯いになる。

日本の拷問史

 罪人に苦痛を与えて強制的に白状させる拷問は、日本でも古代から存在していたと推測されるが、公式に制度化されたのは奈良時代、大宝律令が制定されてからである。
 律令で定められた拷問は、罪の容疑が濃厚で自白しない罪人を、刑部省の役人の立ち会いのもと、杖(じょう)、拷問に用いる場合は訊杖(じんじょう)を用いた。
 律令における訊杖の規格では、長さ3尺5寸=約1mで、先端が4分=約1.2cm、末端が3分=約0.9cmと定められていた)で背中15回・尻部15回を打つ。
 自白できない場合は次の拷問まで20日以上の間隔をおき、合計200回以下とする条件で行っていた。
 皇族や役人などの特権者、16歳未満70歳以上の人、妊娠間近の女性に対しては原則的には拷問は行われなかった。
 ただし、謀反などの国事に関する犯罪に加担していた場合は地位などに関係なく、合計回数の制限もなかったと思われる。
 このため拷問中に絶命する(杖下に死す)罪人も少なくなかった。
 奈良時代の著名な政変の一つである橘奈良麻呂の乱で、謀反を企てた道祖王、黄文王、大伴古麻呂らが杖で長時間打たれた末、耐えかねて絶命したのは良く知られているが、他にも長岡京造成途上での藤原種継暗殺事件や、承和の変、応天門の変などでも容疑者を杖で打ち続ける拷問が行われたとされている。
 やがて遣唐使中止や延喜の治の頃になると、杖で打つ拷問は廃れていったと考えられる。

 戦国時代、江戸時代においては駿河問い(するがどい)・水責め・木馬責め・塩責めなどのさまざまな拷問が行われた。
 1742年に公事方御定書(くじかたおさだめがき)が制定されてからは、笞打(むちうち)・石抱き・海老責(えびぜめ)・釣責の四つが拷問として行われた。
 その中でも笞打・石抱は「牢問」、海老責・釣責は「(狭義の)拷問」というように区別して呼ばれ、その危険性の高さゆえ、「(狭義の)拷問」は「牢問」よりも厳しい要件が定められていた。
 拷問が行われるのは、殺人、放火など死罪となる重犯罪の被疑者に限られ、その上共犯者の自白や証拠品の確保などによって犯罪が立証されていることが必須であり、なおかつ、拷問の実施には老中の許可が必要だった。
 町役人が独断で拷問を行うことは、法制度上では禁止されていた。
 また、江戸幕府最後の南町奉行で与力だった佐久間長敬の書き残した文章によれば、拷問を使わずに犯人から自白を引き出す吟味役を有能とする風潮が存在していた。
 これは拷問しにくい環境が整っていたことを示している。
 但し、現代のような科学捜査の無い当時の犯罪捜査は自白中心だったことから拷問を廃止するのは不可能だった。
 また、公事方御定書の適用範囲自体が幕府直轄地に限定されており、その他の領地では各藩の自由裁量に任されていたため、公事方御定書制定以降も上記四種以外の刑罰が存在した可能性がある。

 同じく江戸時代島原の乱の原因となった松倉勝家が領する島原藩におけるキリシタンに対して行われたとされる拷問は、蓑で巻いた信者に火を付けもがき苦しませた蓑踊りをはじめ、硫黄を混ぜた熱湯を信者に少量注ぐ、信者を水牢に入れて数日間放置、干満のある干潟の中に立てた十字架に被害者を逆磔(さかさはりつけ)にするなどさまざまだった。
 これはキリスト教の棄教を迫るもので、キリシタンが拷問中に転向する旨を表明した場合、そこで拷問から解放された。
 拷問の結果棄教したキリシタンが数多く存在しているが、逆に棄教しない場合は死ぬまで拷問が続けられた。

捕縄術(とりなわじゅつ・ほじょうじゅつ)

一般的に、縄または縄状のものを用いた武術を総称して縄術(じょうじゅつ)という。
そこから拘束に特化したものが捕縄術(とりなわじゅつ・ほじょうじゅつ)である。
また、拷問や刑罰に用いられる特殊な結び方を総称して緊縛(きんばく)と呼ぶ。
緊縛には、斬首や磔などの際の拘束を目的とした結び方から、指を壊死させ切断するための結び方などが含まれる。
厳密に言えば、緊縛に属する結び方、その名称は流派によって異なるから、緊縛の定義は難しい。
歌舞伎や芝居・浮世絵などでは、捕縄術が使われたわけではなく、胴体を数重に巻く程度であり、それは現代の時代劇にも継承されている。
つけ加えると、捕縄術は他の武術同様に、その技は口伝で継承され、外部には秘密とされるから、浮世絵などで詳細に描くことはできなかったのである。

江戸時代の縄師は、女性の美を表現することに目的があるのだから、罪人を拘束するような技を用いることはないが、結び方や絞め加減などにおいて、捕縄術の心得があったことがうかがえる。
実際のところ、縄師の存在やその縛りに関する史料はあるが、量的にはわずかで、いつ頃、何人というような詳細はわからない。
幕末から明治にかけて月岡芳年が描いた「無惨絵」は、歌舞伎や芝居を題材としたものであるから、当然捕縄術とは異なる。

余談であるが、明治初期には、警察官と刑務官以外が人を縛ることは法律で禁止されており、警察官と刑務官では、元になった捕縄術の流派が異なっていた。
ちなみに、手錠の普及で捕縄術は使われなくなったが、護送の際の腰縄にその名残がみられる。

江戸時代の恋愛・結婚・離婚

 江戸時代、恋愛を意味する言葉は、「浮気」または「艶気」と書いて「うわき」という。
 「浮気」の反対語は、「本気」ではなく、「現実」である。
 また、「情欲」と書いて「こい」と読ませることもある。
 江戸時代の恋愛には、「一生離れない」「愛は永遠」というような恋愛観は無く、いつかは別れる(現実に戻る)というのが恋愛である。
 これの言葉は、遊郭での擬似恋愛から生まれたとされる。

 江戸時代、恋愛結婚が無かった訳ではないが、結婚は現実的なものという認識があった。
 武家においては家名を守り、家を後世に存続させることが最大の目的であり、商家にあっては金(持参金)目当ての結婚も珍しくなかった。
 庶民は姓を持たないから意識されることはないが、武家は夫婦別姓であり、現代風に言えば、嫁入りしても戸籍は実家に属しているのである。
 江戸時代、夫婦は互いに「礼」を尽くし、そして「絆」を結ぶ。
 「絆」とは、親や兄弟姉妹など、一生どころか死んだ後も切れない関係を意味することから、夫婦の「絆」とは、究極的には同じ墓に入るというところに行き着く。
 江戸時代、妻の不倫は許されないが、夫の不倫は許されると思っている人が多いが、どちらも家名を汚す行為であり、厳罰の対象となる。
 ちなみに、側室や妾をもつのは、家の存続を目的とするものだから、原則として妻の了解の上でしか許されない。

 江戸時代の離婚は、夫からの「三行半(みくだりはん)」一枚というイメージがあるかもしれない。
 実際には、家や夫側の都合での離婚は、嫁入りの際の持参金を全額返済しなければならないし、それなりの手切れ金が必要になる。
 ※妻に離婚の原因がある場合、その必要はない。
 例えば、時代劇で子どもができないから実家に帰されるというようなことは、実際にはほとんどない。
 妻の側から離婚を申し入れる場合にも、夫からの「三行半」が必要である。
 「三行半」は、離縁状というよりは、再婚許可証というべきものだったからである。
 例えば、DV夫と離婚したいが、夫が認めない場合には、一部の尼寺などが間に入り夫を説得したりするが、それでも認めない場合には、公儀公認の強制離婚になることもあった。

武士道 -日本人の超自我-

そもそも、現在知られている武士道は、1899年、新渡戸稲蔵が英文で著したもので、それ以前に体系的にまとめられた経典のようなものがあったわけではない。
 武士道とは、武士いかに生きるべきかということであるが、江戸時代の読本や歌舞伎、浄瑠璃などを通して大衆化し、日本人全体の理想とする生き方、あこがれの精神となったものである。
 つまり、武士道とは日本人共通の「超自我」ということができる。
 大和魂という場合、武士道を政治的に、特に戦争などの際に国民を心理的に誘導するために用いた言葉として区別して考えなければならない。
武士道の徳目

 武士が最も重視するのは「義」である。
 「義」は公のものであり、武士は主君に仕えるというよりは、主君の「義」に仕えるから、それを「奉公」といい、「義」に仕えるのが「忠」である。
 主君が「義」に反すれば、それを正すのも「忠」であり、これは主従関係が、支配と隷属の関係ではないことを意味している。
 儒教での徳目とされる「孝」は、私事とされ、武士の徳目には含まれない。

 次に重視されるのは「名」、すなわち家名であり、それを守り高めることが「誉」であり、「誉」と対極にあるのが「恥」である。
 当然、辱めることも辱めを受けることも許されず、その場合、一死をもって「名」を守る。
 また、支配することも隷属することも恥であり、例えば、「義」に反する主君に盲従することは「不忠」とされ、それは「恥」である。

 「勇」は「義」を即断的になすための力であり、一体として存在する。
 「勇」は「義」すなわち正しいことを行うための力であり、「義」の無い「勇」はただの暴力となってしまう。

 「礼」は他人への思いやりで、その人の品格をあらわす。
 その「礼」を具体的にあらわす形式が「礼儀作法」だが、形式だけで心を伴わないものを「虚礼」といい、心の無さが伝わることを「失礼」という。

 「仁」は優しさで、人の上に立つ者には必須の徳目とされる。
 「礼」は他人への思いやりで、その最高の姿が「愛」であるが、「礼」はとかく形式的になり心が見えにくくなることから、「仁」によってそれを補うとされる。
 ちなみに、江戸時代には「愛」という言葉は無く、それは「孝」の一部であり、その関係を「絆」という言葉で表す。

 「誠」は、徳目のひとつであると同時に、すべての徳目を貫くものである。
 図でいえば、各徳目をつなぐ線も誠である。
 つまり、「誠」は武士が武士であるための欠くことのできない徳目とされる。

吉原遊郭

 吉原遊郭の女郎には位があり、それによって揚代が決まっていた。
 吉原細見に格付けが記載され、店にも大見世・中見世・小見世の別がある。
 時代による変遷もあり、詳細が不明な点もあるが、花魁に相当するのは、おおむね次の女郎である。

太夫:高級女郎で吉原でもわずかな人数で、宝暦年間(18世紀中頃)に吉原の太夫は姿を消した。
格子:太夫に準ずる女郎であるが、やはり宝暦頃に姿を消した。
散茶:元々は太夫・格子より下位の女郎であったが、後に太夫・格子がいなくなったため高級女郎を指す言葉になった。
座敷持:普段寝起きする部屋の他に、客を迎える座敷を持っている女郎で、禿が付いている。
呼出し:散茶・座敷持のうち、張り店を行わず、禿・新造を従えて茶屋で客を迎える女郎。
本来は「呼出し」を花魁と称したと考えられ、これらより下位の女郎は花魁とは言えない。

 万治元年(1658)の吉原細見によれば、太夫3人、格子67人、局365人、散茶669人、次女郎1004人である。
 また、安永4年(1775)の吉原細見によれば、散茶50人(内、呼出し8人)、座敷持357人(内、呼出し5人)、部屋持534人など(総計2021人)となっている。
 なお、店の筆頭である女郎を「お職」と呼ぶことがあるが、本来は小見世で呼んだ言葉で、大見世・中見世では使わなかったという。
※映画「さくらん」で土屋アンナ、菅野美穂、木村佳乃らが女郎役を演じているが、「お職」が登場するから、小見世が舞台ということになる。

 花魁には教養も必要とされ、花魁候補は幼少の頃から徹底的に古典や書道、茶道、和歌、箏、三味線、囲碁などの教養、芸事を仕込まれていた。
 花魁を揚げるには莫大な資金が必要であり、一般庶民には手が出せないものであった(花魁の側も禿や新造を従え、自分の座敷を維持するために多額の費用を要した)。
 身請け(みうけ)は、(花魁に限らないが)客が女郎の身代金や借金を支払って勤めを終えさせることで、大見世の花魁では千両にものぼった。
 ※江戸初期1両=およそ10万円、中・後期3~5万円

 禿は、七、八歳頃に遊女屋に奉公に出され、給金(身代金)は二両二分くらいで、姉女郎について行儀作法などを身につける。
 十三、四歳で(振袖)新造(姉女郎の許可を得て客をひく場合、揚代二朱)となり、十七、八歳で遊女として独立して格付けされる(突出し)。
 ※二朱は、大工の賃金が4匁として、およそ七日分に相当する。
 ちなみに禿や新造にかかる費用は姉女郎の負担となる。
 ※花魁の語源は、禿や新造たちが姉女郎を「おいらの姉さん」と呼んだことに由来するという説もある。
太夫の揚げ代は元禄年間の銀74匁から徐々に上がり、宝暦年間には銀90匁になり、他に揚屋の席料、祝儀、酒肴料、芸者や太鼓持の揚げ代や祝儀がかかるから、10両、20両は必要になる。
※銀50~60匁が一両
 上級遊女(花魁)の素質を見込まれた者を引込禿といい、行儀、芸事の英才教育を受ける。
 吉原では、原則として二十八歳で年季明けとなり、身寄りの無い者は番頭新造(俗に後ろ帯、遣(や)り手という)として店に残り、花魁の世話や新造、禿の教育をするが、客はとらない。
 多くの女郎は、身請けや年季明け(一般的な年季は十年を超えない期間)後に、小商いを始めることができるくらいの蓄えをもって吉原を出る。
 岡場所などの女郎とは違い、高い教養や芸事を身につけている吉原遊郭の女郎の場合、女郎あがりという差別はあまり無かったといわれる。
 中見世や大見世の女郎の場合、様々な束縛はあるものの、その暮らしは当時としてはそれなりに恵まれていた方だといわれる。

 女郎の恋人を間夫(まぶ)と呼び、間夫が来ると女郎が金を出して一緒に過ごすが、度重なると店は儲けにならず、場合によっては年季が明けても借金が残ることになる。
 このような場合や稼ぎが少ない女郎、病気になった女郎は、鉄漿溝沿いの小見世や切り見世に売られることになる。
 三十歳以上の女郎や罰を受けて吉原へ来る者が集まり、強引な客引きやぼったくりが横行し、特に東岸一帯を羅生門河岸と呼んだ。
 ただし、ここも吉原遊郭の中であり、いよいよとなれば更に地方の岡場所などに売られたり、くら替えすることになる。

 時代劇などで描かれる吉原は、岡場所の増加によって衰退した江戸時代後半のイメージで、更に中見世や大見世と、こうした小見世や切り見世の話がごっちゃになっている場合が多い。
 今回の内容は、吉原遊郭が栄えていた頃の話である。

江戸の治安

●八丁堀与力・同心( はっちょうぼりよりき・どうしん )
与力・同心は、町奉行にだけ使われていた呼び名ではないため、町奉行に従属していた与力および同心を特に八丁堀与力・同心という。
与力は世襲制で、定員50騎で、南北両奉行所に25騎ずつ配置された。
同心は総数200人おり、南北両奉行所に100人ずつ配属されていた。
同心は、同心株(身分証明書のようなもの)を一年ごとに更新する必要があった。
※同心株は、一定の条件を満たしていれば武士以外でも手に入れることができ、逆に一定の手続きをすれば、同心株を返上して武士をやめることもできた。
現在で言えば、与力は国家公務員で、同心は地方公務員というところだろう。

《与力》
[年番与力] 奉行所の財政から人事までを取り仕切る。
[吟味方与力] 与力中の最重要職
[市中取締諸色掛り与力] 町中の諸色(物価)の調査
[例繰方(れいくりかた)与力] 判例の調査(検索)、整理(先例を重視したため)
※上記役はごく一部。時代とともにその役職数は増えていった。各与力の下には数名の同心が付く。
《同心(基本的には与力の補佐)》
[隠密廻り] 奉行・与力の特命を受け極秘に捜査。
[定町廻り] 定められた地域を定められた道順でパトロール。
[臨時廻り] 定町廻りの手の足りないときなど定町廻りを永年勤めたものがあたった。
※これらは[三廻り]と言われ、同心の中のエリートで、与力の下には付かない。
《岡引( おかっぴき )》
同心の個人的な手下で、房のない十手を使用し、罪人を縛る権限は無い。
幕末には、江戸には500人の岡引がいたといわれる。

●火付盗賊改方
1665年(寛文5年)「盗賊改」設置。
1683年(天和3年)「火付改」設置。
1699年(元禄12年)町人に限らず、武士、僧侶であっても疑わしい者を容赦無く検挙することが認められていることから、熾烈な取り締まりによる誤認逮捕や拷問による冤罪等の弊害が多く廃止。
1702年(元禄15年)に盗賊改が復活。
1718年(享保3年)「火付盗賊改」が先手頭の加役となり、1862年(文久2年)には先手頭兼任から独立。
火付盗賊改には決められた役所は無く、先手組頭などの役宅を臨時の役所として利用した。
任命された先手組の組織(与力(5-10騎)、同心(30-50人))がそのまま使われ、取り締まりに熟練した者は、火付盗賊改方頭(長官)が代わっても(任期は基本的には2年)そのまま同職に残ることもあった。
火付盗賊改方は、非武装の町奉行(武士の常として町奉行所の同心は帯刀してはいるものの、刀は使わず十手や梯子を使って、生きたまま犯罪者を捕らえるのが普通であった)に対し、窃盗・強盗・放火などの凶悪犯罪の武力制圧を前提とした捜査権を持つ機動隊として設置された。
裁判権はほとんど認められておらず、敲き(たたき)刑以上の刑罰に問うべき容疑者の裁定は老中の裁可を仰ぐ必要があったため、捕えるよりも現場で切り捨ててしまうケースも多かった。

1609年ごろに15万人と伝えられた江戸の人口は、18世紀初頭には100万人を超え、世界一ないしはそれに匹敵する規模であったと推定されているが、記録に残っているのはほとんどが町人の人口のみで、武家や寺社方、その他の人口の推計値を加えたものは、68万人から150万人までとかなり幅がある。
※現在、東京都内の警察官数は約42,000人、東京の人口約1,280万人、警察官1人当りの住民数は300人である。
町奉行(奉行所の月番制は、民事訴訟の受付を北と南で交替で受理していたことを指す)、火盗改を合わせても300~350人ほど、岡引を含めても最大で800人ほどで江戸市中の治安を守るわけで、容疑者が江戸を離れれば手が及ばないから、犯罪が発生した場合、容疑者となる可能性がある人間はとりあえず全員確保する必要があった。
よって、江戸の町では縛れて連行されたからといって、即犯罪者という目で見られることは無かったといわれている。
特に町奉行所では、確実な証拠が無ければ拷問は許されないから、町奉行所と町人の関係は比較的良好であったといわれるのに対し、いわゆる冤罪のほとんどは火盗改で起きたため、火盗改は町奉行所や町人たちから嫌われていたという記録も残っている。
ちなみに、江戸の武士も縄をかけれることでは恥とはならないが、町奉行所の管轄は浪人、主に無宿浪人であるから、普通の武士が縄をかけられるということはなかった。
しかし、武士が拷問を受けることは恥とされ、拷問を受けるくらいなら無実であっても罪を認めて切腹することを選んだといわれている。