2ntブログ
2024 04123456789101112131415161718192021222324252627282930312024 06

スポンサーサイト

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。

恋しいと愛しい

「恋しい」と「愛しい」の使い分けは距離。

日本人にとっての「恋」は、永遠には続かないもの、いつかは別れが訪れるもの。
故に、「恋しい」は、二人の距離が(物理的に、または精神的に)離れている時に使われる。

一方で、日本人にとっての「愛」とは「絆(きずな)」である。
「絆」は、死後も切れない関係を意味し、親子や兄弟で使われ、それに準じるかたちで夫婦にも用いられる。
「愛しい」は、二人の距離が(物理的に、または精神的に)近い時、そばにいて使われる。
これは、「愛でる」、すなわち目の前にいる相手を賞美する際に使う言葉だからである。

霊性の意味

『スピリチュアル』の訳は、精神性 霊性

「霊(性)」というと、幽霊や霊魂、精霊や神秘性をイメージする人が多いが、その意味は人間としての尊厳である。
「尊厳」とは、尊(とうと)く、厳(おごそ)かな、侵しがたいこと。
それは、生きている間も、死んだ後も、人間としての尊厳は守られるべきという考え方をいう。
つまり、誰かと向き合う時、敬意をもって向き合うということである。

エロスとラブ、愛を意味する言葉

紀元前、古代ギリシアの哲学者プラトンは、その著書『饗宴』の中で、「様々な段階がある愛の中で、真・善・美の世界に到達しようとする、最も高次元の愛を(高貴なる)エロスと呼ぶ」とした。
そこでは、愛の段階を「肉体の美」「精神の美」「霊性の美」そして「智恵の美」としている。
「肉体の美」は性的欲求の段階、「精神の美」は所属・愛情欲求の段階、「霊性の美」は承認・尊重欲求の段階であり、これらを総称として欠乏欲求といい、それは、人としての発達段階、すなわち未熟な段階での「欲望」という名の執着であり、そうした執着から解放され、その魂がより高次の成熟した段階へと移行した、理性の情熱による美そのものへの渇望を「智恵の美」とし、それを「エロス」と呼んだのである。
そして、それを「高貴なるエロス」と称する。
「高貴なるエロス」から生まれたものが宗教であり、「高貴なるエロス」へ到達するための道標を道徳や倫理という。
「高貴なるエロス」は誰もが望みながら、誰もが到達できるわけではない。
故に、性への執着に縛られた者たちは「高貴なるエロス」を騙り、それを「大衆向きのエロス」という。
「大衆向きのエロス」の多くは、高い理想を口にしながら、周りの者の足を引っ張って、性欲に縛り付けようとする。
実際の「大衆向きのエロス」は、最も低次元の愛の段階にすら達していない(すなわち、そこに愛は無い)のである。
それを具体的な言葉としたのが「性交」を意味する「メイク・ラブ」である。
また、本来の「プラトニック・ラブ」は「高貴なるエロス」のことであるが、キリスト教において、強制的に性への執着から解放させようとして使われたのが、「純潔主義」を意味する「プラトニック・ラブ」なのである。
ちなみに、日本人は、古来より性に関して寛容であり、抑圧されない分、比較的早い段階で性への執着から解放されてきたが、明治以降の西洋化に伴い、極端に性を抑圧したために、逆に性への執着が強くなったといわれる。
そして、戦後の日本では、明治以来の性の抑圧と、アメリカ的な性を解放が同時に存在し、行き場を見失った性への執着が暴走を始め、現在は、その暴走がピークにあるともいわれる。

粋を語れば、野暮になる

「通人(つうじん)を気取(きど)れば、半可通(はんかつう)になり、
粋(いき)を語(かた)れば、野暮(やぼ)になる。」

なんとも難しい美意識である。

「通」は吉原を舞台に生まれた美意識で、「粋」は深川辺りを舞台に生まれた美意識で、共通するのは「品」である。
春画や艶本の類でさえ、ただ猥褻なだけでは野暮とされて売れなかった。
それが洗練された芸術性へとつながった。

「通」にしても「粋」にしても性風俗の世界を舞台にしながら、性への執着から解放されたところから生まれた美意識である。

「粋」を語るのは「野暮」になるけど、あえて…。

模擬刀と模造刀

模擬刀(もぎとう)とは、日本刀を模して作成された刃物としての機能を有さない道具のことで、居合の修練用から床の間飾り(観賞用)などがあり、刀剣とみなされず、所有者届の作業や登録証を必要としない。

模造刀(もぞうとう)は、日本刀に類似した刀剣(刃物)の中で、日本刀の伝統的な製法により、武器として作られたもの。
所持には公安委員会の「所持許可証」を必要とするが、法律上その存在自体が認められていないため(一部例外あり)、登録証発給の対象とならず、基本的には許可はおりない。
まれに、パフォーマンス用として、または食材切断用の道具、山林で使用するための鉈という扱いで販売されている場合がある。

※法律上(銃刀法等)では、刃物でなくとも金属製のものを「模造刀剣類」と定義されているので、美術刀剣(擬似刀)でも、管理や持ち運びの際には注意が必要。

品格って何?

『品格』
  物の良し悪しの程度
  品位、気品

「品位」
 人に自然に備わっている人格的価値
「気品」
 どことなく感じられる上品さ
 気高い品位

「品(しな)やか」
 上品なさま、たおやか
「たおやか」
 荒々しくないさま、しとやか
「淑(しと)やか」
 言語・動作が落ち着いて上品なさま
 性情が穏やかで嗜みの深いさま

「○○の品格」という本が流行ったが、「品位」にあるように、人に自然に備わっている人格的価値であるから、意識して身につけようとしても、それは「品位」にはならない。
かといって、「品位」は生まれた時から既に備わっているわけではない。
自分を磨くのは大切だが、何かに依存していては自分自身の価値を高めることにはならない。

醜という近現代美学

美意識(びいしき)とは、人が美しいと感じる心の働きであり、美しいと感じる対象は個体差が大きく、時代、地域、社会、集団、環境などによっても大きく異なり、文化、生活、歴史観などに大きく左右される。
西洋では、華美な装飾や対称の美しさ、人工の美をその美意識の中心においている。
日本の美意識はむしろ自然と対立せず、自然に溶け込むこと、死をも敵対するものとしては捉えず、自然への素朴な同調などが中心になっている。

美学(びがく)とは、美や芸術あるいは趣味の問題を扱う哲学である。
伝統的美学は、美とは何か(美の本質)、どのようなものが美しいのか(美の基準)、美は何のためにあるのか(美の価値)といった問題に取り組んできた、いわば美の形而上学である。
広義の美学は、道徳的な美や自然の美を含む。

醜(しゅう)とは、肉体的(または精神的に)魅力が感じられない、すなわち醜い(みにくい)様子を言い、特に視覚的なものを指すことが多い。
視覚的な美意識という観点において、多くの場合、醜は、嫌悪や恐怖の対象となり、精神的な醜は恥と同義とされ、対義語は美である。
醜は、自分または他者を卑下する場合に用いられ、美しくなりたいという意識は、自己を醜とする意識から生じる。
美しいと言われたある人が別人にとっては醜いと捉えられることもあることから、醜は、主観的な美学の問題であるという主張もあるが、人間の醜は、性淘汰や遺伝的・肉体的な健康の指標となっているというのが科学的な見解とされる。

洗練

『洗練(せんれん)』
物を洗ったり練ったりして仕上げるように、文章や人格などを練り鍛えて優雅、高尚なものにすること。
磨きをかけて、垢抜けしたものにすること。

水が低きに流れるが如く、人も低きに流されるという。
その流れを「流行」という。
だから、「流行」は、常に低い方へと向かうものである。
通常「洗練」の反対語は「素朴」だが、文化的には「大衆化」であり、精神的には「幼児化」だといわれる。
流れに揉まれて磨かれることもあるが、それを「洗練」とはいわない。

手加減の美学

縄師としての縛りで重要なのは、縛り方ではなく、手加減、つまり締め加減である。
例えば、縛れたことの無い人から、SM緊縛で縛られ慣れている人まで、それぞれが同じように感じること。
それぞれが肉体的または精神的な苦痛と感じず、適度な拘束感を感じる手加減ができるのがベスト。
縄師が表現するのは、女性の品(しな)やかさと艶(あで)やかさだから、女性の表情が苦痛に歪んだ、もしくは曇った表情になれば、それは失敗。
縄師の縛りは、粋(いき)に!
性欲剥き出しの縛りは野暮(やぼ)!!

秘すれば花

美意識とは、人が美しいと感じる心の働きであり、美しいと感じる対象は個体差が大きく、時代、地域、社会、集団、環境などによって、自然と対峙するか、自然と調和するかなど、その美意識は大きく異なる。

欧米では、華美な装飾や対称の美しさを核とし、自然と対峙する人工の美をその美意識の中心においている。

一方で、日本人の美意識は、自然と対立せず、むしろ自然に溶け込むこと、例えるなら侘(わび)、寂(さび)に代表される朽ち果てゆくものへの素朴な同調などが基調になっている。
故に、生と死が繰り返される自然のプロセスの中で、それが全く同じにはならないということを意識した時、「一期一会」の精神も生まれた。
世阿弥は、それを「秘すれば花」と表現し、全体的調和を重んじ、自己主張を抑制することによってかえって受け手の想像力を刺激し、日本人特有の奥深い表現を成しえるとした。
受け手の想像力を日本語では「思いやり」という。

縄師の縛りも、そうした日本人の美意識を反映したものである。