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倫理と道徳とモラル

『倫理』
人倫のみち。
道徳の規範となる原理。
「人倫」
人と人の秩序関係、転じて人として守るべき道。
客観化された理性的意志。

『道徳』
ある社会で、その成員のその社会に対する、あるいは成員相互間での、善悪の判断基準となる規範の総体。
社会生活において、法律のように外的強制力を持つものではなく、個人の内面的な原理。

『モラル』
「道徳」を単に一般的な規範としてではなく、自己の生き方と密着させて具現化したところから生じる思想や態度。
※「武士道」などは日本人の「モラル」の代表的な例である。

メディアでは、しばしば「モラルの崩壊」という言葉が使われるが、崩壊しているのは「道徳」であって、そこには初めから「モラル」は存在していない。
というか、「道徳」の規範となる「倫理」自体が存在していない可能性も否定できない。

ちなみに、倫理的な観点から生じたものが礼儀としての「エチケット」で、道徳的な観点から生じたものが作法としての「マナー」や「しきたり」で、外的な強制力を持つもの法律や規則を「ルール」という。

化粧(けわい)

『化粧(けしょう・けわい)』
紅(べに)や白粉(おしろい)を用いて顔を装い飾ること。
美しく見えるように表面を磨き飾ること。

外見は、その人の内面に(少なくともプラスの方向には)影響しないが、内面がその人の外見(特に言動について)に大きな影響を与える。
内面とは、人格や性格という側面と、知識や教養という側面で考慮される。
※知識や教養は、イコール知性ではない。

かわいい人は本当にかわいいのか?

「かわいい」は、「かわゆい」の転。
①いたわしい。不憫(ふびん)。かわいそう。気の毒。痛々しい。
②見るに耐えない。見られたものではない。
 ①②のような様子に対する同情から転じて③の意味に使われる。
③同情すべきである。同情を感じる。
 後に「可愛い」という当て字が使われるようになり、④の意味で使われるようになる。
④(子供に対して)小さくて美しい。

「かわいい」という言葉は、対象が大人か子供かで意味が違ってくる。
子供に対して使った場合は④の意味だが、大人に対して使った場合には①か②の意味になる。
例えば、大人の女性に「かわいい」と言うと、一般的には「子供っぽい」という意味を含むことになるが、解釈の仕方によっては「見るに耐えない」と言っていることになる。
「かわいい」と言われて喜んでる大人の女性を見ると、私は①の意味で「かわいい」と感じる。

癒しについて

『癒(いや)す』
病気や傷を治す。
飢えや心の悩みを解消する。

『和(なご)む』
和やかになる。穏やかになる。和らぐ。

「癒し」という言葉が流行るということは、それだけ人の体や心が病んでいるということ。

刺青について

古代の入れ墨は、魔除けという呪術的な目的で施されることが多い。
江戸時代の入れ墨は、主に二種類に分かれる。
犯罪者に施されるものと、死後の個人の特定を目的としたものである。
前者には、見せしめとしての意味もあるが、伝統的に、人が犯罪を犯すのは、心に魔(物)が憑りつくからだという考え方があり、憑りついた魔を祓う、もしくは封じるという目的からであるともいわれる。
後者は、焼死や水死などの危険性のある職業において行なわれ、ここでも危険と隣り合わせであることから、その絵柄の多くには魔除けとしての意識が含まれているといわれる。

欧米におけるTATOOは、力の誇示という意味が大きいから、ヨーロッパ人よりもアメリカ人に多くみられる。
精神医学的には、精神的に未熟な場合に多く、自己の肉体を傷つける点において、精神医学的マゾヒズム(自虐性)やアルゴラグニー(疼痛(とうつう)性嗜癖:苦痛を与えること、または苦痛を受けることによって性的満足を得るもの。)の一種といえる。
一方で、権力を誇示する警察型やあうて攻撃的に振舞う威嚇(臆病)型のサディスティック・パーソナリティの人に多いという調査結果もある。

最近はファッションと位置づける人もいるが、していない人の80%以上(調査各国の平均で、日本では90%以上)がTATOOや入れ墨を見て恐怖や嫌悪感を抱くということから考えると、TATOOを入れている人が主張しているだけと言えなくも無い。

私自身は、TATOOイベントに参加したりすることもあるから恐怖や嫌悪感は感じないが、自分も入れようとは思わない(痛いのは嫌いだし…)。
また、最近の気になるのは、彫り師の技術以前の問題として、文字にしても絵にしても下手なものが多いこと。

退廃について

『退廃』
衰(おとろ)え廃(すた)れること。
気風が崩れること。
道徳や気風が崩れて、不健全な状態になること。

江戸時代の日本の文化において、「退廃的」と評されるものは、西洋的・キリスト教的な価値基準による評価であって、同じものを日本の伝統的な価値基準によって再検証すると、「退廃的」という評価は適当ではないのである。

極端な話、西洋的・キリスト教的な道徳的な価値基準からすれば、性に関して寛容な日本の文化そのものが退廃的ということになるとも考えられるのである。
しかし、幕末の混乱期を除けば、日本の伝統的な価値基準によって見れば、多少の揺れはあるものの、日本人の道徳や気風が崩れて不健全な状態になったという見方はできない。
西洋の文化の多くが、古いものを否定して壊すことで新しいものを生み出すという過程を経ているのに対して、江戸時代の文化の多くは、古いものをベースとして、それを壊すことなく、より洗練されたものへと変化させるという違いがある。
それは、周囲を異文化・異民族に囲まれた欧米の国々と、周囲を海に囲まれ、鎖国政策をとっていた日本の環境的な差異による。

幕末から明治にそれが廃れるまで、江戸時代の文化は、常に武家の武士道と庶民の粋という美意識に支えられており、退廃的という評価はやはり適当ではない。

ヌードとポルノの違いについて

一般的には「ヌード」と「ポルノ」は混同されることが多い。

『ヌード』
裸であること。
絵画・彫刻・写真などの芸術における裸体像。
厳密に言えば、「ヌード」とは、単に裸体像というのではなく、「高貴なるエロス」における美そのものへの渇望から生まれる表現をいう。
つまり、「リビドーの昇華」によって描かれるものが「ヌード」である。
また、「ヌード」には道徳的功利性が不可欠であるともいえる。

『ポルノ』
ギリシア語で「娼婦」の意。
性的興味をそそるような描写を主とする文学・書画・写真・映画など。
「ポルノ」は、「万人向きのエロス」の性そのものや肉体への執着から生まれる表現をいう。
「ポルノ」は、「リビドーの固着」によって描かれるものをいう。
道徳的功利性を排除する「耽美主義」は、その典型的な例である。

堪忍という美学

『堪忍(かんにん)』
耐え忍ぶこと。
こらえて我慢すること。
怒りをこらえて許すこと。

「喜怒を色に表さず」
感情を表に出さず押し殺すことは、日本人の、特に武士道における美徳とされる。
それは、欧米の過度ともいえる感情表現と比較するから、感情がないように見える。
しかし、感情は押し殺せば押し殺すほどに、その内側で高まっていくものであり、それが、様々な場面において欧米人をはるかに凌駕する感情の豊かさとなって表れる。

例えば、様々な段階があるとされる恋愛において、最も高次元の愛である「高貴なるエロス」は、理性の情熱による美そのものへの渇望であるとされるが、日本人のそれは、まさに「高貴なるエロス」のかたちであるといってよい。
それは、リビドーの昇華による、日本の伝統的な美意識の原点である。

江戸時代の男女の関係

江戸時代、「恋」のことを「浮気・艶気(うわき)」といい、主に遊郭における肉欲を主体とする擬似恋愛を指し、読本などでは「情欲」と書いて「こい」と読ませたりしている。
ちなみに、「浮気」の反対語は「本気」ではなく「現実」である。

江戸時代に現在の「恋人」に相当する未婚の男女の関係をいう言葉があるとすれば、「許婚(いいなづけ)」や「間夫(まぶ)」である。
「許婚」は、文字通り結婚を許された家(家族)公認の仲をいい、それぞれ「許嫁」または「許婿」という。

遊郭では、客と遊女の関係を「相方(あいかた)」といい、遊女の「相方」のうち、遊女が身銭をきって遊ばせる男を「間夫(まぶ)」といい、そこから転じて本気の相手という意味で使われた。
反対に、「相方」のいる客が他の遊女と遊ぶことを「不倫」といい、その客は「間男(まおとこ)」といわれ、後にそれが一般でも使われるようになる。

ちなみに「心中立て(しんじゅうだて)」は、「相方」との間での誓い、またはその証拠を示すことで、「間夫」との場合を「心中尽く(しんじゅうずく)」という。

文化と美

「文化」
①文徳で民を教化すること。
②世の中が開けて生活が便利になること。
③人間が自然に手を加えて形成してきた物心両面の成果。
・衣食住をはじめ技術・学問・芸術・道徳・宗教・政治など生活形成の様式や内容を含む。
・「文明」と同義に扱われることが多いが、一般論として「文明」は人間の技術的・物質的所産をいい、狭義の「文化」は人間の高度な精神的所産をいう。

すなわち、社会を構成する人間が高度な精神的所産(道徳的または倫理的規範)をもとに生活すること、またはその環境を「文化」という。
「美」という概念は、人間の高度な精神的所産のひとつであり、「文化」から逸脱したところに「美」は存在しない(または存在できない)。