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阿房と莫迦

●阿呆(あほう)、または阿房(あほう)。

「呆」は、おろかなこと。ぼんやりしていること。あきれること。の意。
「房」は、いわゆる太刀持ち(大名以下の者に刀を持ってついてまわる者)で、剃髪していたことから坊と呼ばれていたものが転じたといわれる。
人から指示されないと行動できない。また、それ以外に能がないという意味で使われる。
※「阿」は、人を呼ぶときに親しみを込めて冠する語。

●莫迦(ばか)、馬鹿(ばか)は当て字。

取るに足らないつまらないこと。無益なこと。役に立たないこと。愚者。の意。
※梵語の慕何(moha)、無知の意が語源といわれる。
この場合の無知は、道徳、社会的常識の欠如をいう。
そこから、人の道に外れた行ないをする者、した者に対して、人ではないという意味で「馬鹿」の字を当てたといわれる。


「親ばか」という言葉があるが、あきれるほど子供を溺愛する親という意味で、阿呆である。
それが過ぎて、社会的常識を欠いた行動をする「モンスター・ベアレント」を「馬鹿親」という。

アイドルとカリスマとタレント

「アイドル」
①偶像
 崇拝の対象としての人や物
②憧憬の対象
③人気者

「カリスマ」
①神の賜物
②超人間的・非日常的な資質
③カルト集団における崇拝の対象(カルト・フィギュア)

「タレント」
①才能・技量
②才能のある人
③(テレビ・ラジオなどの)出演者

各③は、本来の意味から著しくかけ離れた使い方だが、一般的には③の意味で使われる。
③の意味は拝金主義に基づいて、マインド・コントロール的手法によって大衆または消費者を誘導し、利益を得る目的で生み出されたものである。
現代の「アイドル」や「カリスマ」や「タレント」の多くは、拝金主義のメディアが大衆から利益を吸い上げるために作り出した疑似餌にすぎない。
多くのメディアにとって、自由に使える疑似餌こそ価値があるもので、本物はむしろ邪魔な存在となる。

最近読んでる本

『犯罪捜査の心理学』
いわゆるプロファイリングの本。
読んでて思うことは、現代社会でプロファイリングって無意味だってこと。
プロファイリングって、犯罪心理の特異性から犯人像をイメージするわけだけど、現代人の場合、犯罪心理が日常化して、その特異性というものが希薄になっているから、隣に殺人犯がいても気がつかない。
アメリカ的な個人主義にはルールはあっても、はじめからモラルというものが存在しない。
※モラルとは何かは過去に書いているから省略
日本のアニメや漫画が海外で人気があるのは、キリスト教的な道徳が否定するものが、無制限に描かれているからだ。
それは、性や暴力など。
それらを日本の文化だというのは変だ。
技術的な点は確かに優れているが、精神面ではどうか?
精神面が発達してこその文化、精神面が衰退したものを文化とはいわない。

話は変わるが、日本の流通システムは複雑で無駄が多いという。
いわゆる中間業者の存在のことだが、そもそも日本の流通システムや終身雇用などは、江戸時代に、より多くの雇用機会を創出するために生まれたもので、「金は天下の回り物」「宵越しの銭は持たない」という言葉に代表され、ある意味では共産主義的な考え方から生まれている。
戦乱の世の後の江戸時代、人口が爆発的に増加した時、利益を集中させず、より多くに分配するためのシステムだった。
以前、何かの雑誌で読んだが、日本的な流通システムがなければ、日本の失業率は50%を超えるだろうと書かれていた。
現在の日本がそうなっていないのは、日本的なシステムがまだまだ生きているからで、大企業に限って換算すると、失業率は50%を超える数字になるらしい。

道徳性の発達段階

慣習的水準以前(未発達の段階)
①罰と服従への志向
②道具主義の志向

慣習的水準(社会性の獲得)
③対人同調志向
④法と秩序への志向

慣習的水準以降(社会性の発達)
⑤法律志向
⑥普遍的倫理志向

人間の道徳性は①から⑥へと発達していく。
一般的には、①②は主に幼児期の道徳性の特徴であり、③④は思春期から成人期の特徴とされる。
道徳性の発達の過程では、しばしば③④に対する反発が起こり、いわゆる非行行動がみられる。
また、一般的に大人という場合、④⑤をいい、⑥の段階に至る人間は多くないといわれている。

芸術

芸術(げいじゅつ)
表現者あるいは表現物と鑑賞者とがその美意識において相互に作用し合うことで、精神的・感覚的な変動(感動)を得ようとする美に関する活動(美術、文芸、音楽、演劇など)の総称。

表現=芸術ではない。
最近では、表現者側のみの活動が捉えられ、表現者が表現に用いた手段、媒体、対象などの作品やその過程が芸術と呼ばれ、表現者の一方的な主張(信念、思想、感覚、感情など)である場合も多くなっている。
歴史的にも、表現者が芸術家を自称したり、表現物を芸術作品と主張するようになったのは20世紀になってからのことであり、芸術が精神的な相互に作用し合うことであるなら、それが芸術であるか否かは、むしろ鑑賞者の判断に委ねるべきであろう。

桜と薔薇

日本と欧米の美意識の違いは、しばしば桜と薔薇に例えられる。
桜は、毎年同じ季節に一気に咲いてパッと散ることから、裏切らない信頼と潔さの象徴とされる。
そして、一つ一つの花は小さく、淡い色と淡い香だが、それらがまとまって大きな一つの美を形づくり、散る花、散った花びらすら美しいとされる。
一方で、薔薇は一つ一つの花が次々と咲いて、鮮やかな色と強い芳香を放つ。
そして、薔薇の花は枝についたまま朽ち果てるが、他の花がそれを隠すことから、日本では一つの美を形づくる死が、厭われるものであることを象徴しているといわれる。
更に、薔薇には棘がある。
それは、裏切りの象徴ともいわれ、自己の繁栄のためには裏切ることも厭わないことを意味するとされる。
「大輪の一輪の薔薇は、朽ちた花を隠し、同じ根をもつ周りの枝さえ傷つける棘を隠す」という。

色気

『色気(いろけ)』
異性の気を引く性的な魅力。
異性に対する関心や欲求、性的感情。
愛敬。趣き。風情。

「色気」は、すなわち「美しさ」ではない。
確かに、美しいものに「色気」を感じることは多いが、「色気」があるから美しいとは限らない。
むしろ、「美」そのものへの感覚を鈍らせ、惑わせるものが「色気」であるとさえいわれる。
芸術の世界では、はじめから性を意識した「色気」を求めるのではなく、「美」そのものを追求した結果として生まれる趣き、風情としての「色気」であることが望ましいとされる。

立てば芍薬,座れば牡丹,歩く姿は百合の花

「立てば芍薬,座れば牡丹,歩く姿は百合の花」

女性美の喩えとされるこの言葉、語源については諸説あるが、唯一明確な根拠があるとされる一説として以下のようなものがある。

漢方における効能
「芍薬(しゃくやく)」
腹が立つという精神状態における腹筋の緊張する症状として、芍薬がその精神的肉体的異常を解消する効果があるとされる。
「牡丹(ぼたん)」
下半身の鬱血から、座り込んだら立ち居が不自由なる症状に効果があるとされる。
「百合(ゆり)」
神経を鎮める作用があり、ヒステリー、イライラを癒すとされ、また呼吸器系の異常に効果があるとされる。

室町時代の書物では、以上のような、特に女性に多いとされる症状に効果があると紹介されているそうで、江戸時代、庶民にとって、特に嫁を選ぶ時には、外見的な美しさよりも健康な女性が好まれたことから、特に既婚女性の常備薬といわれ、そこからこの言葉が生まれたという説がある。
そこから、「健康的な女性」が「いい女」とされ、「いい女」は「美しい女性」というふうに結びつけて、女性美の喩えとなったといわれている。

シュルレアリスム

印象派批判主義「キュビスム」の先導者で、のちに「シュルレアリスム」と名付けたのは、ギヨーム・アポリネール(1880-1918:イタリア出身のポーランド人の詩人、小説家、美術批評家。)。

本来のシュルレアリスムとは、「ものすごく過剰なまでの現実」というような意味である。
現実(約束事などに捕らわれた日常世界)に隣接した世界、またはその中に内包された世界であり、一見すると非現実的だが、主観や意識や理性が介在できない状態での偶然や、普段気付かない現実を「超現実」とした。
日本においては和製英語流に「シュールリアリズム」と呼んだり、「シュール」と日本独自の省略形で呼ぶ。
それは、シュルレアリスムそのものではなく、「やや難解でアーティスティックである」「常識を外れて奇妙である」「既存の状態を超越している」「少し変な」というくらいの意味で使われる。
「超現実主義」ともいわれ、「超現実」という言葉は「現実を超越した非現実」という意味に誤解されがちである。
つまり、本来のシュルレアリスムが、実は常識的であるのに対して、日本のシュールは非常識であるという違いがある。
それは、本来のシュルレアリスムが一般にも理解可能であるのに対して、日本のシュールは本人以外には理解できない。

一般に、「シュルレアリスム宣言」がなされた1924年前後から終戦くらいまでのものをいう。