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日本の拷問史

 罪人に苦痛を与えて強制的に白状させる拷問は、日本でも古代から存在していたと推測されるが、公式に制度化されたのは奈良時代、大宝律令が制定されてからである。
 律令で定められた拷問は、罪の容疑が濃厚で自白しない罪人を、刑部省の役人の立ち会いのもと、杖(じょう)、拷問に用いる場合は訊杖(じんじょう)を用いた。
 律令における訊杖の規格では、長さ3尺5寸=約1mで、先端が4分=約1.2cm、末端が3分=約0.9cmと定められていた)で背中15回・尻部15回を打つ。
 自白できない場合は次の拷問まで20日以上の間隔をおき、合計200回以下とする条件で行っていた。
 皇族や役人などの特権者、16歳未満70歳以上の人、妊娠間近の女性に対しては原則的には拷問は行われなかった。
 ただし、謀反などの国事に関する犯罪に加担していた場合は地位などに関係なく、合計回数の制限もなかったと思われる。
 このため拷問中に絶命する(杖下に死す)罪人も少なくなかった。
 奈良時代の著名な政変の一つである橘奈良麻呂の乱で、謀反を企てた道祖王、黄文王、大伴古麻呂らが杖で長時間打たれた末、耐えかねて絶命したのは良く知られているが、他にも長岡京造成途上での藤原種継暗殺事件や、承和の変、応天門の変などでも容疑者を杖で打ち続ける拷問が行われたとされている。
 やがて遣唐使中止や延喜の治の頃になると、杖で打つ拷問は廃れていったと考えられる。

 戦国時代、江戸時代においては駿河問い(するがどい)・水責め・木馬責め・塩責めなどのさまざまな拷問が行われた。
 1742年に公事方御定書(くじかたおさだめがき)が制定されてからは、笞打(むちうち)・石抱き・海老責(えびぜめ)・釣責の四つが拷問として行われた。
 その中でも笞打・石抱は「牢問」、海老責・釣責は「(狭義の)拷問」というように区別して呼ばれ、その危険性の高さゆえ、「(狭義の)拷問」は「牢問」よりも厳しい要件が定められていた。
 拷問が行われるのは、殺人、放火など死罪となる重犯罪の被疑者に限られ、その上共犯者の自白や証拠品の確保などによって犯罪が立証されていることが必須であり、なおかつ、拷問の実施には老中の許可が必要だった。
 町役人が独断で拷問を行うことは、法制度上では禁止されていた。
 また、江戸幕府最後の南町奉行で与力だった佐久間長敬の書き残した文章によれば、拷問を使わずに犯人から自白を引き出す吟味役を有能とする風潮が存在していた。
 これは拷問しにくい環境が整っていたことを示している。
 但し、現代のような科学捜査の無い当時の犯罪捜査は自白中心だったことから拷問を廃止するのは不可能だった。
 また、公事方御定書の適用範囲自体が幕府直轄地に限定されており、その他の領地では各藩の自由裁量に任されていたため、公事方御定書制定以降も上記四種以外の刑罰が存在した可能性がある。

 同じく江戸時代島原の乱の原因となった松倉勝家が領する島原藩におけるキリシタンに対して行われたとされる拷問は、蓑で巻いた信者に火を付けもがき苦しませた蓑踊りをはじめ、硫黄を混ぜた熱湯を信者に少量注ぐ、信者を水牢に入れて数日間放置、干満のある干潟の中に立てた十字架に被害者を逆磔(さかさはりつけ)にするなどさまざまだった。
 これはキリスト教の棄教を迫るもので、キリシタンが拷問中に転向する旨を表明した場合、そこで拷問から解放された。
 拷問の結果棄教したキリシタンが数多く存在しているが、逆に棄教しない場合は死ぬまで拷問が続けられた。

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